2011年タイ大洪水を振り返って(その1)

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※本稿は三井住友海上タイ支店と共著でバンコク日本人商工会議所・所報
(No.715、2021年11月号)に掲載した記事を基に再構成しています。

1. 2011 年タイ大洪水の概況

タイ経済に深刻な影響をもたらし、またタイ進出日系企業へも大きな打撃を与えた2011年のタイ洪水(以降、「大洪水」)から10 年が経過した。大洪水はタイ日本人社会・経済に大きな衝撃を与えた。一方、日本人駐在員には定期異動もあり、総じて日本人の間では大洪水による甚大な苦難の記憶が風化してきているように思われる。そこで本稿では大洪水から10 年が経過したのを機に、大洪水がいかに激しい災害であったかをあらためて振り返り、タイ自然災害の特徴を概観する。

(1) 大洪水の概況
大洪水の被害はタイの広範囲にわたった。全77 県のうち65 県が被災し、死者815 名、約950 万人が被害を受けたとされる。2011 年の5 月と8 月は歴史的に見ても極めて雨量が多い月であったほか、6 月と7 月には台風が襲来するなど(台風4 号:HAIMA、台風8 号:NOCK-TEN)、年間を通じて非常に多雨な年(例年の1.4 倍)であった。

タイでは7月には台風8 号の大雨により、北部地域では既に洪水が発生していたが、8 月以降の多雨によりこれが徐々に拡大・南下し、10 月上旬には中部アユタヤ県のサハラタナナコン工業団地が冠水、その後10 月下旬までにロジャナ工業団地、ハイテク工業団地、バンパイン工業団地ほか主要7工業団地が浸水・冠水した。冠水被害を受けた工場は838 拠点、うち日系企業は450拠点におよんだ。ジェトロ・バンコク事務所が2012 年2 月に実施したアンケート調査によると、回答企業133 社(製造業81 社、非製造業48 社、その他[1]4 社)のうち、71%は直接的または間接的に大洪水の被害を受けている。[2]

大洪水が経済活動にもたらした影響は甚大で、2011 年国内総生産(GDP)成長率は第3四半期までプラスであったにもかかわらず、第4 四半期には洪水の影響でマイナス成長となり、年間成長率は1% と前年度7.8% から大幅に悪化した(非農業分野はマイナス10%に達した[3])。最終的には大洪水による経済損失は1.43 兆バーツに達したと言われる。[4]

チャオプラヤー川水系では過去にも多くの洪水が発生しているが、大洪水は同国の歴史上もっとも経済被害の大きい洪水となった。自然現象としての降雨のほか、ダムの貯水量調整も洪水発生の大きな要素と考えられている。

チャオプラヤー川水系における主な洪水[5]

(2) タイの地形と洪水の特徴
多くが半日から数日程度で収まる日本の洪水とは異なり、チャオプラヤー川水系の洪水は数か月かけて南下する。大きな水の塊がじわじわと侵食するイメージとなる。チャオプラヤー川流域は、世界的に見ても極めて稀な低勾配の地勢であり、そのため川の流れが極めて緩やかである。図1はチャオプラヤー川と日本の利根川、信濃川の河床勾配を比較したものであるが、チャオプラヤー川河口付近と、そこから約100km 上流に位置するアユタヤの標高は2 ~ 3m 程度しかない。大洪水の際も流速はわずか1 日数キロ、下流に近い場所では1 キロ未満の日もあったと言われている。このような地形は、バンコクからアユタヤに向かう鉄道に乗ると簡単に見て取れる。

図1:チャオプラヤー川、利根川、信濃川の河床勾配[6]

2.大洪水で罹災された工場の様子

前書きで大洪水の記憶が風化しているのではないかと述べた。ここでは大洪水を当時実際に経験され、現在はタイに駐在されている方から当時の振り返りについてお話しを伺ったので紹介する。

         ①工場全体が浸水した時の様子
当時は日本の本社スタッフであり、工場浸水時の状況を生には体験していないが、アユタヤ工場が浸水する前に、高電圧電源を遮断する手順について工場担当者から電話照会を受けた。工場の電源遮断は通常5年に一度しか実施しないため、工場担当者には初めての経験であり、浸水が日々迫るなか、焦り、緊迫した様子が伝わってきた。後日、工場は約2m浸水、ボートで工場の中に入り工場の天井付近をボートで進んでいくのをビデオで見て、非常に不思議な気持ちになった。

         ②工場内部の罹災状況、当時の心境
水が引いた約2週間後の12月に現地工場へ入った。1階設備は泥水に浸り、まずは従業員や協力会社による掃除作業が始まった。従業員は自分の家も被災して大変な状況であるにも関わらず、工場の早期復旧に尽力してくれ、使命感に涙が出る思いだった。一度浸水した設備が正常稼働するか、判断は容易ではなく、設備図面自体も浸水し見ることができず、設備復旧の重要な手掛かりが無く愕然とした。一方顧客への製品供給が滞ることも許されないため、早期に設備復旧計画を立てるため、タイで越年することとした。

         ③復旧作業で大変だった事
現場調査し図面を再作成したり、機器の納期を確認したり膨大な作業があったが、最も緊迫した状況は輸入手続きだった。非常に多くの書類を用意する必要があり、ホテルで夜中にパソコンを打つ日々が続いた。疲れがピークに達していた時はキーボードを打ちながらそのまま寝ていた日もあった。パソコンを打ちながら寝てしまったのは後にも先にもあの時だけだった。

寄港地が急遽変更になったり、必ずしも通関は思うようにいかず、スケジュールに合わせるためには臨機応変に対処する必要があった。皆が一日も早く復旧させたいというベクトルが一致していたので、バックアップ策も考え、常に先回りして確認するなど、良いチームワークで苦難を乗り越えた。

          ④復旧体制(本社指示、他拠点からの応援など)
工場の復旧には多くの応援が必要で、現場調査、機器整備、工事、検収ごとに日本の本社へ具体的な人材の応援を依頼したが、時には難色を示され、親しい先輩に泣きついて無理を言ったこともあった。「あの時の君は電話越しでもテンションが違って、アドレナリンが出まくっていて圧倒された」と言われた。当時はまだ多数の出張者を受け入れることができたが、このコロナ禍ではそれもできないため、現地だけの対応となることを考えると恐ろしい。

保険への加入は、逸失利益の補償のほか、多くの応援者を呼ぶうえでも備えとなった。社内購買では価格妥当性検証が義務付けされているが、保険金でバックアップできる安心感があり、顧客への供給責任、復旧最優先の精神で対応できた。

多くの従業員等の尽力で、計画より若干前倒しで、一部工程を3月に再開することが出来た。
最初の製品が出てきたときは仲間と手を取り合い涙が出た。

貴重な体験談を寄稿いただきましたご厚意に、この場をお借りし感謝申し上げたい。

3.大洪水の被害への保険金お支払い対応

前述の体験談で保険対応について言及いただいたが、当時の三井住友海上をはじめとする損害保険会社における保険金のお支払対応状況についても触れさせていただきたい。

2011 年10 月初旬に「バンコク郊外北部のサハラタナナコン工業団地が浸水」との一報を受けた直後、三井住友海上では洪水対策室を設置、お客さまからの罹災のご連絡に備えた。その時点では洪水の全容は明らかではなかったが、広範囲に影響が拡大する極めて異常な洪水であるとの認識を強めていた。間もなく、工業団地内にあるお客さまの工場で2m を超える泥水に浸る事態となったが、実際の調査にはなかなか着手できず、調査要員の出張支援、損害復旧会社の手配など資源確保を優先した。

洪水はさらに容赦なく南下しながら工業団地を飲み込んでいく。「次のエリアで止まるだろう、いや止まらない。でも次のエリアで止まるだろう、いや、止まってくれ」と、異様な緊張感の中でお客さまと日々認識共有させていただいた。本格的な調査は10 月下旬にようやく開始できた。

罹災が判明していないお客さまも含めて、罹災時の初動対応等をまとめた説明文書をご案内した。事故対応に関する説明会も開催した。11 月に入り罹災されたお客さまからの具体的な保険金のご請求をいただいたが、浸水のため書類がどうしても限られ、個々の判断に時間を要しご迷惑をお掛けしたケースも発生した。

一般に、日本における地震や台風等の災害では、多くの場合「災害の発生」から「被害の確定」まで短期間であり速やかに調査できるが、大洪水では約1 か月にわたって被害が徐々に拡大、その間調査を開始できない状況でお客さまからのご照会やご要望に対して対応する必要があった。書類がすべて整わずとも、当面の2011 年12 月決算期に合わせて、損害調査開始から約2 か月の間、一部前払いを含め、可能な限り早期の保険金お支払い実現に総力挙げて対応した。

後日発表された世界銀行の推計によると、タイ全体の被害総額は約3 兆5000 億円。うち工業団地の被害額は約1 兆7000 億円。日系損害保険会社がお支払いした保険金は約9000 億円。自然災害による経済損失額の大きさでは、当時では史上4 番目の規模となる大災害であった。

4.タイにおける気象変動の概況

幸いなことに大洪水以降、同規模の洪水は今のところ発生していない。しかしながら、前述の通りチャオプラヤー川水系ではこれまで幾度なく洪水が発生してきたという歴史的事実があり、今後も発生する可能性が高いと考え対策を講じておく必要がある。また、洪水のみならず、異常気象など温暖化の影響による自然災害を広く考慮することが重要となる。

2021 年8 月、気候変動に関する政府間パネル(IPCC)による7 年ぶりの第6 次報告書が発表された。この中で特に注目すべきポイントの一つは、人間の活動が温暖化に与える影響について「疑う余地がない」と初めて断定したことである。温暖化については人間の活動以外にも要因があるとする説もあり、IPCC もこれまでの報告書では「人間活動が温暖化に影響を与えている可能性が非常に高い」という言い回しで断言は避けていた事を考えると大きく踏み込む内容となった。世界規模での更なる温暖化対策の進展が期待される。

では実際に、タイにおいて洪水リスクは高まっているのか。また、今後さらに高まっていくのか。東京大学・芝浦工業大学とMS&AD インターリスク総研・MS&AD インシュアランス グループ ホールディングスとの共同研究「グローバルな洪水リスク情報の効果的な活用方法に関する研究」では、2000 ~ 2013 年の時点で洪水の発生確率はこれまでの人為的な地球温暖化の効果がない場合と比較して、2 倍以上となっている可能性を指摘している(図2参照)。[7]

また同研究チームが作成した、「気候変動による洪水頻度変化予測マップ」[8] によると、今後、何らかの温暖化対策を講じなかった場合[9]、チャオプラヤー川下流域では20 世紀後半(1971 ~ 2000 年)には100 年に1 度の確率で生じていた洪水が、21 世紀後半(2071 ~2100 年)には約16 年で1 度の確率で発生すると推定されている。温暖化の加速により発生頻度が大幅に高まる結果になっている。

図2:2010-2013年の期間に、地球温暖化によって洪水の生じやすさが増加した流域(凡例の0以上)と減少した流域 (凡例の0未満)の分布 Hirabayashi et al., 2021b

5.まとめ

タイに進出する日系企業数は2011 年の洪水以降も増え続けており、バンコク日本人商工会議所における2020 年の会員数は2011 年当時から約33% 増の1763 社となっている。また進出企業はタイ国内におけるサプライチェーン強化の観点から原材料・部品などの現地調達率を引き上げる流れもある9。資産はより集積し、サプライチェーンの脆弱性は高まっていることから、2011 年と同等以上の洪水が発生した場合には、当時と比べてより大きな被害、特にサプライチェーン寸断による間接損害が拡大する可能性は否めない。

また、バンコク周辺ではかつて洪水の際の遊水地や海への放水路として活用されていた土地においても急速な開発(工業化・宅地化)が進んだことで洪水対策機能が低下している可能性があり、そうした場所には資産が集積するため、洪水リスクはさらに高まる。大洪水から10 年が経過し、多くの企業の洪水に対する意識は次第に低くなっているように感じられる。万全の洪水対策を講じ、定期的に教育訓練を行っている企業もあるが、多くの企業は大洪水直後に実施していた取組みが形骸化しているのではないか。

大洪水以降、同規模の洪水は今のところ再発していないが、前述の通り大洪水に匹敵する規模の洪水は今後も発生する可能性がある。在タイ企業はこのようなタイの洪水リスクを取り巻く環境をあらためて認識したうえで、備えることが重要である。次号では、気候変動への備えを含めて、企業に求められる対策をご紹介する。

[1] その他:アンケートの回答に企業名が不記載であったため製造業・非製造業の区別が不明の企業

[2] 「 タイ大洪水」に関する被災企業アンケート調査結果の公表について(ジェトロ・バンコク事務所)

[3] IMF:https://www.elibrary.imf.org/downloadpdf/journals/002/2012/124/article-A001-en.xml THAI FLOOD 2011

[4] https://documents1.worldbank.org/curated/en/677841468335414861/pdf/698220WP0v10P106011020120Box370022B.pdf

[5] https://www.voicetv.co.th/read/20481 ほか

[6] 地理情報システムより海抜を確認の上、当社にて編集

[7] Hirabayashi, Y., Tanoue, M., Sasaki, O. et al. Global exposure to flooding from the new CMIP6 climate model projections. Sci Rep 11, 3740 (2021)

[8] Hirabayashi, Y., Tanoue, M., Sasaki, O. et al. Global exposure to flooding from the new CMIP6 climate model projections. Sci Rep 11, 3740 (2021)

[9] 気候変動が最も進行するSSP5-RCP8.5 シナリオの結果(IPCC 第5 次評価報告書で用いられているRCP( 代表濃度経路) シナリオ)に基づく

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